わたしが鳴こう
ホトトギス
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明智 光秀
■明智 光秀(あけち みつひで)
1528年3月10日-1582年7月2日
戦国時代から安土桃山時代の武将。
戦国大名・織田信長に見出されて
重臣に取り立てられるが、
本能寺の変を起こして主君を自害させた。
直後に中国大返しにより戻った
羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。
明智 光秀・名言
若いころ光秀は
芥川で大黒天の像を拾った。
それを見た家臣が
「大黒を拾えば千人の
頭になれるそうです」
と述べて喜んだが、
光秀は
「ならばこれは必要ない」
と捨ててしまった。
驚いた家臣が尋ねると、
「わしは千人の頭に
なることくらいで
終わるつもりはない。
もっと大きくなる」と。
鳴かぬなら
わたしが鳴こう
ホトトギス
仏の嘘をば方便といい、
武士の嘘をば武略という。
これをみれば、
土地百姓は可愛いことなり。
(仏の嘘も武士の嘘も
許されるのに、
年貢をごまかした
百姓だけを
罰するのはおかしい。
百姓の嘘など
可愛いものではないか。)
自分は他の誰でもない、
煕子殿を妻にと決めている。
(妻木煕子は光秀との婚儀の前に
疱瘡[天然痘]にかかり
全身にあばたが
残ってしまったため、
それを気にした父・範煕が
煕子と瓜二つの妹を、
煕子のふりをさせて
光秀のもとにやったが、
光秀はそれを見破り、
煕子を妻とした。)
いざ、お前を
五十日のうちに
輿に乗せる身分に
して見せる。
(斎藤道三が死去した後は、
浪人生活をすることとなり、
光秀を支えたのは、妻煕子。
機織りや自慢の黒髪を売って
生活を支えた。
この照子の献身的な支えに
対して言った言葉。)
たとえ
天下をとったとしても、
妾は持たぬ。
あの人物は俺の重臣だが、
昔父の領内で農夫をしていた。
それを父が登用してまず足軽にした。
おそらく、
あの時の恩を忘れず、
農民だった初心で
父の霊を弔っているのだ。
武士はすべてああありたい。
笑うお前達は馬鹿だ。
(光秀の父が亡くなった際、
一人の武士がその葬儀において、
まるで農民のようなやり方で
線香をあげているのを
まわりの者たちが
あざ笑ったことに対しての言葉。)
時は今、天が下知る五月哉
(今こそ土岐氏の一族である
私が天下を取る時だ。)
敵は本能寺にあり
順逆二門に無し
大道心源に徹す
五十五年の夢
覚め来れば
一元に帰す
心しらぬ人は
何とも言はばいへ
身をも惜まじ
名をも惜まじ
(正しい順序と逆の順序には
一本の道しかないのであろう。
人の守るべき正しい道とは
なんであろうか。
五十五年の夢が覚めたような今、
心の源に到達したような気がする。
私はいま土へと帰るが、
己の生き方に悔いはない。)
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